園子せんせいは定時あがり Vol.7


失ったものを数える日があってもいい

沖縄人である私は、月ごとに、沖縄にまつわる思い出と記憶がある。
8月はなんといっても興南高校の甲子園春夏連覇が記憶に残る。それと大学生のとき、お隣の沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した事故。
6月は慰霊の日はもちろん、石川出身の人間としては宮森小学校のジェット機墜落事故も語らねばならない。私の父は目の前で燃え盛る校舎を見た。米軍占領下の最悪の事故だった。
2月は辺野古新基地建設をめぐる県民投票をした。青年が宜野湾市役所の前で寒空の下、ハンストしたのも忘れられない。
9月はなんといっても安室奈美恵の引退だ。那覇の街は、銀行も、役所も、新聞社も、安室ちゃんの懸垂幕に彩られていた。タワレコで埋め尽くされた安室ちゃんの写真を、足の悪いおばあちゃんがじっくり見て回っていた。

10月。忘れられない首里城の火災である。
夜泣きのひどい赤子を明け方に寝かし、ふらふらと起きた秋晴れの朝、テレビを点けると燃え盛る首里城の姿が中継されていた。文字通り絶句という以外なかった。
首里城はそれまでに4度焼け落ちている。最後に焼けたのは先の沖縄戦で、地下に日本軍の司令部があったことから米軍の標的になった。奈良や京都や鎌倉の文化財が空襲を受けなかったのは、米軍が占領後のために攻撃しないことになっていたからなのだそうである。

新しい首里城は平成に入って完成した。当初、沖縄県民からの反応は薄いものだった記憶がある。なんだか派手派手しく、本土の城のような重厚な色合いや堅牢なつくりではなくて、はりぼてのようなイメージだったのだろうか。
あの朱色が、すべて漆で塗られていたと知ったのは大人になってからだった。城が巨大な漆細工であるなんて、めまいがした。戦うための城ではなく、もてなしのための城と聞いて、がぜん誇らしかった。展示されている琉球王朝時代の工芸品や絵は、他県のお城と同じように歴史のあるものなんだと思うだけで、惚れ惚れとした。

焼け落ちたあと、意外と聞かれたのが、これまで一度も首里城に行ったことなかった、という県民の声だった。ショックのあまり、その後の言葉をつなげることができずに。
当初、「いーいぃん(否定のニュアンスで)、スイグシクはあんなじゃなかったサー」と、往時を知るお年寄り達に認めてもらえなかった平成のお城は、けれども、火災の時には多くの児童生徒を泣き崩れさせ、お年寄りたちを「沖縄戦を思い出す」と慄かせた。新聞の投書は「首里城復興」であふれた。私たちの心の中で、首里城の姿は沖縄を象徴するものとして代えがたく存在してきたのだ。

この日、いてもたってもいられず、0歳の子を連れて首里まで車を飛ばした。上空を何機もの報道ヘリがやかましく飛び、消防の車があちこちにまだ止まり、大渋滞の車は皆のろのろと、かつて正殿があった場所を目で探した。土産屋のおばさんが沈痛な面持ちでブルーシールのアイスを売ってくれ、私は言葉少なにそれを食べた。0歳児はさわやかな秋晴れの散歩を楽しんだようで、きゃっきゃと笑っていた。

行こうと思っていたところこそ、私たちは後回しにしてしまっている。行かねばならない仕事や学校には、嫌々ながら毎日行くのにね。

先日、ひっそりと店を閉じたコザの老舗、定食丸仲の写真がSNSにあふれた。そういや最近行ったことなかったなぁ、カツBが恋しいという声も、じつは行ったことなかった、という声もあった。

いつもそこにあると思っていた景色が変わっていくことに、そこに癒しがたい心の痛みを伴うことに、私たちはそろそろ気づいた方がいい。泡瀬ゴルフ場の横、鬱蒼と茂るモクマオウの並木も忘れられない。あの暗くてくねくねの細い道が、今は明るくまっすぐになって、巨大な北中城のあのショッピングセンターになったことも。

行きたいところにはすぐ行こう。会いたいひとにはすぐ会おう。
忘れられないのなら、しばらくめそめそしても、いいと思う。
めそめそする時間をたっぷり味わって、ひとは少しやさしくなる。
10月31日。あの日から、ハロウィンのお気楽な祭りを楽しめなくなってしまった。仮装をさせてきてください、という保育園の依頼に、本気で、龍柱のコスプレをさせようと考えていたほどである(技術がなく断念)。
ありし日の首里城にまみえる日は、生きているうちに来るのだろうか。

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