人生七転び八起き Vol.3


【大学時代のアルバイト】

私が大学生になって最初に働いたのはイベント会場の屋台です。確か、先輩の紹介だったと思います。ゴールデンウィーク中に豊見城城址公園で、仮面ライダーショーが開催されていました。そこに、同じ学生寮に住んでいた体育科の友人Kと参加しました。5日間、原チャリで1時間を掛けて通いました。仕事内容は焼きそばを作るのですが、麺はもちろん沖縄そばの麺でした。「えーっ、焼きそば麺じゃないの?」と、県外出身の私は軽くカルチャーショックを受けました。また駐車場を担当していたKは、来場者から「殺すぞ」と言われてショックを受けていましたが、よくよく考えると「しなすよ(叩くよ)」と言われたんじゃないかと思います。鹿児島出身の彼はここでウチナーグチの洗礼を浴びた訳です。また、このアルバイト中に初めてブルーシールアイスを食べました。(冷凍室に保管してあった商品を思いっきり…)

次にスマイル0円のファストフード店で働きました。制服を支給され、気分も上々。実は兄も大学1年生の時に同じ店舗で働いていたのでした。私はフライドポテトを揚げたり、ハンバーガーを作ったりしました。決められた時間内にお客様に提供しなければならず、まさに時間との戦いでした。ですので何度も何度も作る練習をしました。また、作り置き商品は一定の時間が経過するとそのまま廃棄しなければならず、貧乏学生だった私には少なからずショックでした。兄が働いていた時には余った商品の持ち帰りが可能と聞いていたので、余計に悔しい思いをしました。「余った商品は食べられる」と思って働き始めたんですから。でも、仕事自体は楽しかったです。ある日曜日にこどもの国で職員同士の親睦を深めるレクリエーションがあり、私も参加しました。ゲームの最中に憧れの先輩(美人)と手をつなぐ機会があり、「参加してよかったなぁ〜」とつくづく思いました。
働き始めて3ヶ月が経った頃でしょうか。体育科の友人Mが上司とトラブって急に辞めてしまったので、私だけ働き続けるのは何だか彼に悪い気がして、私も一緒に辞めてしまいました。ホント無責任ですね。

夜の世界に興味があったので、松山の高級クラブでボーイ(ホール担当)のバイトもやりました。時給も高かったんですよ。仕事内容はお客様の席に注文を取りに行ったり、お酒や料理を運んだりしました。美人ホステスだらけの職場だったので、毎日ウキウキ気分で通っていました。キレイなお姉様方から「あら、かわいいわね」などと言われて、舞い上がっていました。あの頃はバブル時代だったので、金持ちのおっちゃん達が美女をはべらせてお酒を飲んでいました。ホステスにキスしたり、モミモミしている光景を、羨望の眼差しで見つめていました。
それにしても、コックさんの作るまかない飯が美味しかったなぁ〜。ちゃんと食事代は取られましたけどね。また、ゲイだと噂されていた先輩に目を付けられて、しょっちゅう自宅に誘われました。でもコックさんが「アイツの家に行った後(仕事を)辞めたヤツが何人もいるから行くな」と言われていたので行きませんでした。この先輩、しょっちゅう私のお尻を触ってきたんですよね。当時18歳のガキだった私は、耐え忍ぶことしかできませんでした。仕事が深夜1時までだったので、大学の寮に着くのが2時頃、共同シャワー室のお湯は止められている時間で困りました。通退勤がしんどかったので、徐々に辞めたくなっていきました。辞め方は最悪で「実家に帰省するからしばらく休みます」と嘘を付き、そのまま行かなくなってしまいましたよ、バカですねー。

次に始めたのが確か家庭教師だったと思います。夕方、大学の学生部に募集が張り出されるので、毎日見に行きました(時には授業を抜け出して)。倍率がかなり高い人気のアルバイトでした。運良く交渉権を獲得できると、依頼者の方に直接電話を掛けて、お会いする約束をするのです。
この家庭教師が1番いいアルバイトだったので、大学1年から4年まで続けました(担当する生徒さんは変わります)。高給だったし食事もできました。沖縄の家庭料理を食べるきっかけにもなりました。でも、てびちが出てきた時には困りました。当時は苦手だったんですよ、特にあのフォルムが…。だから、食卓に並んだ時は逃げ場がなく諦めて食べました。「美味しかったです」という言葉を添えて。そんな私も今ではてびちが大好物になり、お金を払って食べています。
あの頃に中2だった教え子Tとは去年29年振りに再会し、素潜りしたりお酒を飲んだりと、友達のような感じでお付き合いが続いています。久しぶりに会った時はお互いに「老けたなぁ〜」と思ったことでしょうね。2人とも40代のオッサンになっていましたから。


Tの家庭教師は毎回楽しみでした。勉強を教えることがそんなに好きだったのかって?いえいえ、そうではありません。お母様の美味しい手料理がお腹いっぱい食べられるからです(あっ、言っちゃった)。ごはんも遠慮なくお代わりしていましたよ。今思うと恥ずかしいですね。そして休憩時間にはお菓子とジュースまで出てきました。もう至れり尽せりです。いつか、ご両親にお会いして恩返ししたいなと考えています。妹のRちゃんにもソプラノリコーダーを教えました。
最近Tから聞きましたが、私は家庭教師最終日にとんでもないことをしでかしていたみたいなのです。何と中学生だったTに「オトナの勉強」と称して、お酒をすすめた事があったそうです…。ヤバいヤツですね、ホントに。彼に言われるまで完全に忘れていましたが、以前にも地元(長崎)の中学生に同じような事を言った覚えがあったのでピンときました。
そんな大学生がその後、教師になるんですから…。そして教師になった私は色々と問題を起こすんですが、その傾向はこの頃にあったのかもしれないと感じてしまいます。話を戻してと。
多い時には家庭教師のアルバイトを3軒掛け持ちしていました。それで月に10万円は稼いでいました。当時の相場が週2回、1回2時間で給料は月3.5万円だったと思います。時々、女子にも教える機会がありましたが、私が訪ねて行くと、何と女生徒が布団の中で彼氏と一緒に寝ていたことがありました。今となっては楽しい思い出です。

交通量調査のアルバイトもやりました。あれって意外と大変なんですよ。夜中に眠っちゃダメだから、交代で仮眠を取るんです。私は途中、家庭教師のアルバイトで抜けたので、戻ってきてから、抜けた分を埋め合わせしました。
そうそう、ドカタのアルバイトもやりましたよ。早朝6時に首里の芸術大学前に集まり、親方が運転する車に乗って、現場に向かいます。みなさん、弁当を2つ買っていたので、不思議に思っていたら理由が分かりました。10時休憩の間に一つ食べるんですよ。それだけお腹の空く力仕事だということなんですよね。恩納村のホテル建設や本部町の道路工事、読谷村で小学校の工事を手伝いました。今でもそこを通るたびに「あー、コレ、オレが作ったんだなぁ〜」と懐かしくなります。

深夜の現場でも働きましたね。20年程前に沖縄市にあったスケート場の工事を手伝いました。何の技術もない若者は、主に資材運びをやりました。そして仕事が終わり、日給をもらう場面で「交通費」と称して、親方が私達下っ端の日給からお金を抜き取るんですよね。それを見て「オレは搾取される側の人間なんだな」と社会の厳しさと現実を知りました。

最後に卒業旅行の費用を貯めるために、家具屋や引っ越し業者で働きました。家具屋では家具の運搬や組み立て、駐車場係、引っ越し業者では荷物の梱包や運搬、空いた部屋の掃除をやりました。その甲斐あって、無事に卒業旅行(長野県)に行くことができました。昼間はスキー三昧、夜は高級日本酒「雪中梅」やあんこう鍋を堪能し、3泊4日の楽しい旅行となりました。

という訳で、私の大学時代は親の仕送りなしでもアルバイトと奨学金で、何とか生活できましたよ。

■筆者information

沖縄素潜り人 「 One Breath 」
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