人生七転び八起き Vol.15


★コラム15 生命保険外交員

採用までの道のりが長かったので、よく覚えています。
一次選考は書類審査で、ニ次選考は筆記試験と集団面接でした。三次選考は個人面接でしたが、コレがとにかくきつかったです。私の人生の中で1番つらい面接でした。面接官が4人いて、1人30分ずつ質問してきました。計2時間に渡る面接は考えるだけでも恐ろしくないですか?私が答えた内容について更に深く聞いてくるので、徐々にごまかしが効かなくなっていきました。もう、途中で逃げ出したくなる程苦しかったです。丸裸にされた感じがしましたし、終了した時には精魂尽き果てていました。あんな経験は二度とごめんです。四次選考は東京都の本社で個人面接でしたが何とか突破し、ようやく合格を手にしました。
後から聞いた話ですが、100人の応募があり、採用されたのは2人とのことでした。中には土下座までして、「採用してください」と言う人もいたらしいです。それを知って、ラッキーだったんだなぁと思いました。
また、働きながらの就職活動でしたので、時間の調整が大変でした。特に四次選考で東京まで行くために、丸1日休まないといけませんでした。先輩からはネチネチとイヤミを言われましたが、そこはグッとこらえました。

この会社の売りは当時では珍しかった「オーダーメードの保険」でした。それまでのパッケージ(既製品)とは違って、顧客のライフスタイルに合った商品(保険)を提案するという方法で、他の生保会社とは一線を画していました。そして、ターゲットは富裕層の方々でした。顧客の中には有名人もいて、プロ野球選手のイ◯ローさんやんお笑い芸人の◯藪さんがいました。

入社してひと月は研修期間でした。まずは資格取得に向けて猛勉強しました。P生命は業界ナンバー1を目指す会社で、会社の顔であるLP(ライフプランナー)にも同様のことを求められました。合格ラインは70点でしたが、P生命は目標が高く、「90点以上を取れ」と言われました。これが私達に課された命題でしたが厳しすぎます。私は80点台と目標に足りず、後日上司にこっぴどく叱られました。(バカみたいなホントの話)

それと同時進行で生命保険の歴史や必要性などを学びました。ある程度の知識が付いたところで営業トークの練習を始めました。基本となるスクリプト(話型)を覚え、丸暗記ではなく、自分の言葉で伝えるように心がけました。

研修を終えたら、いよいよ実践です。見込み客に電話を掛けて、会う約束をするのですが、これがまたひと苦労なんです。当然相手は「保険には入らないぞ」と身構えているのですから、そこをうまくクリアしなければなりません。私は元々話すことが得意ではなかったので、ことさら難しかったです。断られ続けると、どうしても「自分を否定された」という気持ちが強くなり、悲しくなっていきました。保険屋には少々の失敗ではへこたれない、強い精神力が必要だということが分かりました。

以前から、「保険屋になると友達をなくす」と聞いていましたが、それを我が身をもって体験しました。教員時代の同僚達はさっさと私から離れていきました。「まさか、そんなことはないだろう」と軽く考えていただけに、ショックも大きかったです。

1日の業務を終え、帰宅するのは夜中の2時。もちろん、家族は寝ています。短い睡眠をとり、6時に起床。7時半からの自主研修に参加するという毎日で、体は常に疲労困ぱいでした。この保険屋の時代が人生の中で1番ハードだったかもしれません。お客さんに会うまでの隙間時間に、よく車で仮眠を取っていました。

つらい記憶ばかりですが、いいこともあったんですよ。それは、横浜市のランドマークタワーに宿泊できたことなんです。全国の社員が一堂に会するミーティング(総会)が横浜アリーナで開催され、私は旅行気分で参加しました。屋形船にも初めて乗り、横浜の夜景を見ながら、揚げたての天ぷらを味わいました。いい思い出です。

こんな私でも一応、契約は取れたんですよ。主に家族や友人が保険に入ってくれました。私のために今入っている保険を解約してくれました。その分、責任も重くのしかかってきます。その方々のことを考えると仕事を簡単に辞める訳にはいきません。働く原動力にもなりました。

時には弟に会うために、広島まで行きましたよ。もう、執念ですね。また、福岡の従姉妹に営業を掛けた時にこう言われました。「あんた、保険の話をした途端、顔付きが変わった」。すごくショックでした。恐らく、私の目は「保険を売ろう、売ろう」として、相当ギラついていたことでしょう。反省。そして、契約を取るために長崎の友人や親戚の家にも行きましたよ。しかし、全て空振りに終わり、出費がかさんでいきました。

徐々に仕事がうまくいかなくなりました。そうすると、心も病んできます。ある日、私は上司に向かって、反抗的な態度をとりました。それを近くで見ていた先輩がキレて、私に襲いかかってきました。あー、思い出すと腹が立ちます。この日は形だけ仲直りをして、嫌々ながら一緒に夕飯を食べにいきました。顔は笑っていましたが、心で泣いていました。

とうとう、契約が取れない月が3回続きました。もう後がありません。翌月からは無給になります。そうなると生活が成り立ちません。ついに私は退職を決意しました。現実は厳しかった…。やはり、私は営業職に向いていませんでした。

給料についても不満があります。求人の「月給29万円」を見て、家族のために応募しましたが、採用後に「29万円は全国的な基準であり、低所得の沖縄の実態に合わない」という理不尽な理由で「26万円」に引き下げられてしまいました。会社からこう言われてしまうと、立場の弱い私達は何も言い返すことはできませんでした。でも、よくよく考えると、これって一種の詐欺行為ですよね。

「前職の約2倍の給料」に惹かれて、保険業界に飛び込みましたが、私にはセールス力がありませんでした。上司からは「ノルマはありません」と聞いていましたが、実際は「売上げがなければ、給料は払いません」ということでした。結局のところ、同じことだと私は認識しています。言葉巧みに騙されたのかも…。

勤務期間は9ヶ月でしたが、営業職は向いていないと再認識できたお仕事でした。そして、友達がいなくなりました…。

先日、元上司から、「元気にしてるか?」と電話がきました。東京に行った際には乾杯したいなと思っています。

次回はライフガード(監視員)のお話です。

■筆者information

沖縄素潜り人 「 One Breath 」
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